オリエンタル鍍金の過去をサカノボル Vol.2

2013.01.29 火曜日

七福神

遅くなりましたが、、、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

高橋です。

2回目で、すでに一か月空いてしまいました。。(汗) では、前回のつづきを・・・

阪急

昭和36年度以降は、今迄の2回/月の休日から毎週の日曜日は休日に変更され、後に日給者制度は無くなり、全員が月給者(特別な事情が無い限り)に移行された。

この頃の通勤利用と街中の様子

JR(旧国鉄)利用者は、新長田駅東口(淡路・阪神大震災以降改札口は1ヶ所となった)から会社まで殆ど全員が徒歩約15分かけて出勤されていた。東は尼崎から1名と西は土山から1名と明石から2~3名程で殆どが市内からの通勤者であり、市電(路面電車)と市バスの人が多かった。

市電(路面電車)は、東行き方面は石屋川までと西行き方面は須磨(JR須磨駅に隣接)まで走行していて、運転手と車掌の2名が乗車されていた(後に運転手の1名の乗車となり乗降口が区分された)。当社へ乗降駅を利用していた人達は、湊川大橋駅若しくは東尻池8丁目駅の停留所から徒歩3~8分位であった。

勿論、市電同様に市バスも走行していたが、市電同様に運転手と車掌の2名が乗車され、後にワンマンカーへと移行された。当社への通勤は、住居からとなると圧倒的に市バス利用者が多かった。

この時代、自動車、トラック等は走っていましたが、会社近辺に於いては、まだ馬が荷台車を引っ張り、荷物を搬送し幹線道路には馬糞が散乱していたが、昭和40年代に入ると

馬車は姿を消してゆき見られなくなっていった。

EPSON MFP image  当社の営業活動(昭和30年~40年)状況

営業課の活動の為の客先移動は、自動車を使用するのであるが、その自動車はオート三輪車が主体で、しかも足踏みでエンジンを掛け、腰掛(サドル)に跨りオートバイを運転する様な感覚であった様子。しかも補助席は折りたたみ式の小さな腰掛(椅子)で、勿論現在のように車内の冷暖房は一切装備無く、冬季には周り全体をホローで覆い寒さを防いだ。半製品の荷台からの積み降ろしは、殆どが人力で、人力で適わないものについては、移動式滑車(チエーンブロック)を利用していた。

一般道路の舗装状態も悪く、遠方に出掛ける(姫路方面)日においては、作業服の上に、オーバーを着用し片道2~3時間かけて一般道を走行していた。客先での一仕事が終え冬の寒い日には帰りの途中で、うどん屋に立ち寄り暖かいうどんを口に入れ身体の暖を摂るのが楽しみでもあった様であった。

営業課の人達は、お客様よりお預した製品が、油まみれのものとか、錆(酸化皮膜)発生の酷いものについて、又納期との絡みにおいては、自身で当日の晩、加熱脱脂槽へ浸漬、又は溶剤で油成分を浸漬あるいは拭き取って酸槽へ浸漬(いずれも一晩浸漬しておく)した後、退社する状態が日常的であった。

 

つづく・・・